20世紀になろうとする頃、ウイスキーの歴史における極めて重要な論争が勃発しました。
1878年、ダブリンを拠点とする最も影響力のある4つのアイルランドの蒸留所、ジョン・ジェイムソン&サンズ、ウィリアム・ジェイムソン&カンパニー、ジョン・パワー&サン、ジョージ・ロー&カンパニーが「ウイスキーについての真実(Truths about Whisky)」を出版し、連続蒸留方式に対する嫌悪感を表明しました。
19世紀後半から世界を席巻するようになったブレンデッドスコッチウイスキー生産者を牽制したのです。
かかる動向を受けて、1903年ウィスキーの定義が問われる事件がロンドンで起こりました。イズリントン評議会の判事が消費者からの訴えを受けて、劣悪な品質のウィスキーを提供したとして2人の居酒屋経営者にそれぞれ100ポンドの罰金を科したのです。
判事は、原料が大麦でもその他の穀物でも、ウィスキーは単式蒸留器で造らなければならないと布告しました。これによって業界は、単式蒸留のモルトウィスキー製造業者と、連続式蒸留を行うブレンダーに二分されました。
1903年、当時ダルモアのオーナーであったアンドリュー・マッケンジーはシングルモルトウィスキーの優位性を声高に訴え、「ひとたびハイランドモルトを口にすれば、それはいつでも最高のブレンドウィスキーより好まれるのは間違いないが、初めて経験する人々には最初に少し教育が必要だ」と公言しました。
また評議会は「新参ウィスキー」を取り締まるべく何らかの法的措置を講じようと試みましたが、当時の法務担当者に十分な技術的知識がなかったため関係者の誰も決定を下すことができず、議論は行き詰まってしまいました。
一方、グレーンウィスキー側はデイリーメールに派手な広告を掲載することで人目を惹き、また実際に飲んだ人々から非常に楽しいドラムであるとの評価を多く得ました。つまり、このウイスキーは純粋なモルトよりも軽くて都会のエリート達の敏感な胃に適しているという評価です。この広告デザインが歴史の流れを変えたのです。